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妙法蓮華経

三相(諸行無常・一切皆苦・諸法無我)

三相(さんそう)
諸行無常(しょぎょう-むじょう)・一切皆苦(いっさいかいく)・諸法無我(しょほう-むが)

三相
仏教の根本思想。無常(むじょう)・苦(く)・無我(むが)の三つ。
この三相に対して妄想(もうそう:とらわれの心によって、真実でないものを真実であると誤って考えること。また、その誤った考え。)をいだくことによって人は苦しむ。
この世の一切は無常(むじょう:生滅変化して移り変わり、しばらくも同じ状態に留まらないこと。永遠不変ではないこと。)であるのに常住(じょう-じゅう:生滅変化せずに永遠に存在し続けること。永遠不変であること。)と見る、または永遠不変を望む、この世は苦に満ちているのに楽(らく:幸福・安楽)と考える、自我は無我であるのに我があると考える、などの妄想を除去することで執着・煩悩はなくなり、苦しみは消える。
【三相】
①無常(むじょう)
諸行無常(しょぎょう-むじょう)のこと。
諸行の「行」は、「つくられたもの」の意で、「諸行」とは、「一切のつくられたもの」の意。因縁によりつくりだされたものであるこの世の一切のものをいう。
この世の一切のものは、因縁(いんねん:ある結果を生じさせる直接の原因である「因〝いん〟」と、因を助けて結果を生じさせる間接的な原因、結果を生じさせる条件やきっかけである「縁〝えん〟」。)によってつくりだされたもの(生じたもの)であり、因と縁によって成立している。このため、この世の一切のものは、因や縁の影響を受けて変化し、また、因や縁の影響を受けて滅するので永遠不変ではなく、生滅変化して移り変わり、しばらくも同じ状態に留(とど)まることがない。
たとえば、前世でのカルマ(体で行なう・言葉で言う・心に思うの行為。)が因(いん:原因)となり、肉体を有するという縁(えん:条件)を満たし、今世で人間として存在するという果(か:因に対する結果)が生じているとすると、今世での存在は、肉体という縁(条件)の影響を受けて老化し、いずれは死ぬ(これは、縁に対する結果である「報〝ほう〟」といえる)。
存在は、因縁によって生じ(因だけでは生じず、因と縁がそろって初めて生じる)、また、因縁の影響を受けて滅(めっ)するのである。(因が異なれば、人間ではなく、神として生じるかもしれないが、その場合は、縁である肉体は神の肉体となり、人間よりも寿命が長い。つまり、滅するという報は、縁である肉体の影響だけではなく、因の影響を受けて長短があるので、因の影響も受けている。)
死後は、今世でつくったカルマが因となり、来世で生を受けるが、前世でつくったカルマと、今世でつくったカルマは別のものであるために、来世では今世とは別の存在として生じる(因・縁・果・報には一貫性があるので、因となるカルマが変われば、それにふさわしい縁・果・報となる)。
このように、存在は、因縁の影響を受けて生じたり滅したりして変化する。
また、果は次の瞬間には因となって別の果が生じるので、同じ状態に留まることがない。
たとえば、前世でのカルマが因となって、今世に生まれるという果が生じる。その果は、次の瞬間には因となる、つまり、生まれたということが因となり、さまざまなカルマを重ねるという果が生じる。その果は来世に生まれる因となり、来世に生まれるという果を生じる。
※生まれたことが因で、カルマを重ねるという果が生じるが、この場合の縁は、きっかけ。つまり、生まれたことが原因で、何かのきっかけという縁があって、体で行う・言葉で言う・心で思うのカルマを行うという果が生じる。
また、生じる原因(因)がなくなれば、縁もなくなり、生じるという果もなくなる。
このことから、因縁により生じたもの(この世の一切のもの)は、永遠不変ではなく、生滅変化し、同じ状態に留まることがなく、無常なのです。
※因縁(いんねん)については、
をご覧ください。
②苦(く)
一切皆苦(いっさいかいく)のこと。
一切の有為(うい:因縁によって起こる現象)は無常であるために、苦である。
この世の一切は皆、因縁により生じたものであり無常なので、この世の一切は皆、苦である。
楽(らく:幸福・安楽)も無常であり、その壊れるときには苦となるので、この世に苦で無いものはない。
③無我(むが)
諸法無我(しょほう-むが)のこと。
この世の全ての存在・事物・現象は、因縁(いんねん:ある結果を生じさせる直接の原因である「因〝いん〟」と、因を助けて結果を生じさせる間接的な原因、結果を生じさせる条件やきっかけである「縁〝えん〟」。)によって生じたものであり、因縁によらずにそれ自体で存在する独立自存の存在ではない。
このため、この世の全ての存在・事物・現象は、因や縁の影響を受けて変化し、また、因や縁の影響を受けて滅するので、この世の全ての存在・事物・現象には、実体だといえる永遠不変の我(が)はなく、この世に我(が)は存在しない。
我(が)とは、常一主宰(じょういつしゅさい)の自我のこと。
常一主宰とは、
:常住(じょう-じゅう:生滅変化せずに永遠に存在し続けること。永遠不変であること。)であり、
:因縁によらずにそれ自体で存在し、他(因や縁)からの影響・支配を受けず、
:中心的な所有主として、
:支配能力がある
自我のこと。
たとえば、前世でのカルマ(体で行なう・言葉で言う・心に思うの行為。)が因(いん:原因)となり、肉体を有するという縁(えん:条件)を満たし、今世で人間として存在するという果(か:因に対する結果)が生じているとすると、今世での存在は、肉体という縁(条件)の影響を受けて老化し、いずれは死ぬ(これは、縁に対する結果である「報〝ほう〟」といえる)。死後は今世でつくったカルマが因となり、来世で生を受けるが、前世でつくったカルマと、今世でつくったカルマは別のものであるために、来世では今世とは別の存在として生じる(因・縁・果・報には一貫性があるので、因となるカルマが変われば、それにふさわしい縁・果・報となる)。このように、因や縁の影響を受けて生じたり滅したりして変化するので、今世での「私」は、一時的にそのようにあらわれているだけである。
前世では、今世の姿とは違う姿であったのであり、また、来世では、さらに別の姿となるのである。
「前世での私」が「私の実体」なのか、それとも「今世での私」が「私の実体」なのか、それとも「来世での私」が「私の実体」なのか、と考えてみると、前世での私も、今世での私も、来世での私も、永遠不変ではなく、変わってしまうので、どの「私」も、「私の実体」である、「私の本当の姿」であるとはいえない。
もし、常一主宰(じょういつしゅさい)の自我であれば、変化しないので、これが「私の実体」だ、「私の本当の姿」だと言えるが、因縁により生じた生滅変化する存在(この世の全ての存在・事物・現象)は、常一主宰の自我ではなく、因縁の影響を受けて変化してしまうので、「実体」としての「自我」はなく、無我なのです。
なお、無我は空(くう)と同義です。
摩訶般若波羅蜜経(まかはんにゃはらみつ-きょう)では、空(くう)を次のように説明しています、
「諸法(しょほう:この世に存在する有形・無形の一切のもの。全ての存在・全てのもの・全ての出来事や現象。)は幻と同じだ、陽炎(かげろう)と同じだ、水中の月と同じだ、虚空と同じだ、響と同じだ、乾闥婆城(けんだつば-じょう:乾闥婆が幻術によって空中につくり出してみせた城。蜃気楼〈しんきろう〉。乾闥婆は、帝釈天に仕える音楽を奏でる神。神々の酒「ソーマ」の守護神ともいわれる。)と同じだ、夢と同じだ、影と同じだ、鏡中(きょうちゅう:鏡の中)の像と同じだ、変化(へんげ)と同じだ。」


以下を参考にしました。
○浄土真宗 慈徳山 得蔵寺 「諸法無我」とは!?仏教の核心を現代の言葉でわかりやすく解説
https://tokuzoji.or.jp/shohoumuga/
○ウィキペディア 三相
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%9B%B8_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
○コトバンク 諸行無常
https://kotobank.jp/word/%E8%AB%B8%E8%A1%8C%E7%84%A1%E5%B8%B8-80081#goog_rewarded
○コトバンク 諸法無我
https://kotobank.jp/word/%E8%AB%B8%E6%B3%95%E7%84%A1%E6%88%91-296331
○ウィキペディア 我
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91
○ウィキペディア 一切皆苦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%88%87%E7%9A%86%E8%8B%A6
○新纂浄土宗大辞典 空
https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%A9%BA
○ウィキペディア 空
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
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