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妙法蓮華経

菩薩(ぼさつ)

菩薩(ぼさつ)

菩薩(ぼさつ)
サンスクリット(古代インドの雅語。梵語。)の「ボーディサットバbodhisattva(悟りを求める者の意)」の漢字による音写(ある言語の発音を、他の言語の文字で書きうつすこと)である「菩提薩埵(ぼだいさった)」の省略語が菩薩。
菩薩とは、悟りを求める者、つまり、悟って仏陀になることを目指す者であり、仏陀になる前の段階にいる者のことをいう。
※仏陀については、
をご覧ください。
もともと「菩薩」とは、お釈迦様の成道以前(悟りを開く以前、前世も含む。)の呼称だった。
ジャータカ(お釈迦様の過去世物語)では、お釈迦様は前世で、さまざまな姿(兎・猿・仙人・国王など)で菩薩の修行を積んだとする。
たとえば、雪山童子(せっせんどうじ:お釈迦様が前世において、雪山〈せっせん:ヒマラヤ山脈の異称〉で修行していた時の名。)が、諸行無常偈(しょぎょうむじょう-げ)の半偈(はんげ:偈文の半分。特に、諸行無常偈の後半のこと。)の教えを聞くために、羅刹(らせつ)に身を投げ出す話(後述)や、飢えたバラモン(インドのカースト制度〈身分制度〉の最上位の階級。バラモン教やヒンドゥー教の司祭階級の総称。)を救うために自ら火に飛び込んだウサギの話(後述)など、捨身(しゃ-しん:仏陀や仏陀の教えに対して、自分の身を供物として供養〈くよう:供物を真心から捧げること〉するためや、衆生を救うために自分の身を布施〈ふせ:施すこと〉する修行。)の話がある。
仏教では、捨身は菩薩の修行の中で最も困難なものとされ、禁じられている自殺とは厳密に区別されている。
なお、法華経(ほけ-きょう:妙法蓮華経〈みょうほうれんげ-きょう〉の略。)には、薬王菩薩(やくおう-ぼさつ)が仏陀や舎利(しゃり:仏陀や聖者の遺骨。)に対して、自らの身体を焼いて供養した、焼身供養(しょうしん-くよう)が説かれている。お釈迦様は、この薬王菩薩の焼身供養を、「国土や城、多くの宝を供養するよりもすぐれている」と褒めますが、しかし、それは法華経の一偈(いち-げ:一つの偈。偈とは、経典中で、仏陀の教えや徳を詩文で表したもの。)でも受持(じゅじ:教えを聞いて信受〈しんじゅ:信じて受け入れること。信仰すること〉し、心に念じて忘れないこと。)する功徳には及ばないと説きました。
大乗仏教(だいじょう-ぶっきょう:出家者に限らず在家者を含めた一切の衆生の救済〈ぐさい:救いとって、悟りに至らせること。〉を掲げる仏教宗派の総称。日本の仏教は全て大乗仏教である。仏陀になることを目指して修行し、利他〈りた:人々に功徳・利益を施して救済すること〉を行じる。)は、ジャータカの菩薩の修行を行うお釈迦様を理想とし、自らもお釈迦様と同じように仏陀になることを目指した。このため、大乗仏教の修行者は全て菩薩と呼ばれるようになった。
菩薩は、布施(ふせ:施しをすること)という利他(り-た)が含まれる六波羅蜜(ろく-はらみつ。※六波羅蜜については、
をご覧ください。)を修行して仏陀に成ることを目指す。
利他とは、人々に功徳(くどく:幸福をもたらすもとになる善い行い。また、それにより得られる恵み。)・利益(りやく: 仏陀・菩薩が人々に恵みを与えること。仏陀の教えに従うことによって幸福・恩恵が得られること。また、神仏から授かる恵み。)を施して救済(ぐさい:救いとって、悟りに至らせること。)すること。
布施は、ジャータカの菩薩の修行を行うお釈迦様の慈悲・菩提心(ぼだいしん:悟りを求める心。衆生の幸せのために仏陀になることを目指す心。)に習ったもの。

【雪山童子(せっせんどうじ)】
雪山童子(お釈迦様の前世)は、雪山(せっせん:ヒマラヤ山脈の異称)の山中において、毎日、真理を求めて修行をしていました。
ある時、その姿を見ていた帝釈天(たいしゃく-てん:古代インドの神話において、雷神で天帝とされるインドラのこと。梵天と並び称される仏法の守護神。)は、雪山童子の求道心(ぐどうしん:仏道を求める心。仏陀の教えや悟りを求める心。)を試してみようと、恐ろしい形相をした羅刹(らせつ:大力で足が速く、人を食うといわれる悪鬼。のちに仏教に入り、守護神とされた。)に身を変えて、雪山童子の前に現れ、「諸行無常(しょぎょう-むじょう:この世の全ては移り変わり、永遠不変なものは何一つない。)・是生滅法(ぜ-しょうめっぽう:万物はすべて生滅変化するという真理。)」と不思議な偈(げ:経典中で、仏陀の教えや徳を詩文で表したもの。)を唱えました。
その偈を聞いた雪山童子は、羅刹の前に進み出て、偈の続きを唱えてくれるよう頼みました。
羅刹は、雪山童子を食べることと引き替えに続きを教えると言いました。
雪山童子は、偈の続きを聞くために、自分の身を羅刹に食べさせることを約束しました。
すると、羅刹は、残りの半偈を唱えました。
「生滅滅已(しょうめつ-めつい:生じたり滅したりの移り変わりがやむこと。涅槃にはいること。)・寂滅為楽(じゃくめつ-いらく:涅槃の境地に至って、初めて真の安楽を得ることができる。)」
それを聞いた雪山童子は大いに喜び、死んでも忘れまいと何度も繰り返し口ずさみ、また、後でこの山を訪れた人にもこの尊い教えを伝えてあげようと、周りにある木々や石に、羅刹が説いた偈文(げ-もん:偈を記した文章)を刻み付けました。
雪山童子は「もうこれで思い残すことは何もありません」と羅刹に言い、近くの高い木に登り、羅刹の前に飛び降りました。
しかし、体が地面に叩き付けられる寸前、羅刹は帝釈天の姿に戻り、童子を受け止めました。そして「あなたの尊い心を試した私をお許し下さい。あなたは本当の菩薩です。後世(ごせ:来世)には必ず仏陀になるでしょう。その時には、全ての衆生をお救い下さい。」と言いました。

【ウサギの布施(ふせ)】
昔、ある森に賢いウサギが住んでいました。ウサギには、サルと山犬とカワウソの友達がいて一緒に仲良く暮らしていました。
ある時、ウサギは明日は布施をする日だと思い出し、他の三匹に言いました。「明日は、食を請う人に施しをする日だよ。しっかりと教えを守って施しをすれば、きっと良いことがあるから、食を請う人が来たら、みんな自分の食べ物を分けてやるんだよ。」
四匹は、食べ物を探しに行きました。
カワウソはガンジス河の岸に行き、漁師が捕った赤魚が砂の中に隠されているのを見つけました。カワウソは、「この魚は誰のものですか。」と三度呼びかけましたが、誰も返事をしなかったので、自分の家に持ち帰りました。
山犬は、田んぼの中の番人の小屋に、二串の肉と大トカゲと牛乳の入った壺を見つけました。「これは誰のものですか。」と三度声をかけましたが、誰も返事をしなかったので、自分の家に持ち帰りました。
サルは、森の中でマンゴーを見つけ、自分の家に持ち帰りました。
ウサギは、森の中をかけまわってみましたが何も見つけられませんでした。
翌日、帝釈天がバラモンの姿に身を変え、カワウソのところへ行きました。バラモンがカワウソに施しを求めると、カワウソはガンジス河の赤魚をバラモンに施しました。
バラモンは赤魚に手をつけずに、次に山犬のところへ行きました。
バラモンが山犬に施しを求めると、山犬は二串の肉と大トカゲと牛乳を施しました。
バラモンは肉にも大トカゲにも牛乳にも手をつけずに、サルのところへ行きました。
バラモンがサルに施しを求めると、サルはマンゴーを施しました。
バラモンはマンゴーに手をつけずに、ウサギのところへ行きました。
バラモンがウサギに施しを求めると、ウサギは言いました。「わたしには、胡麻も豆も米もない。どうか薪を集め、火を起こして下さい。わたしはその火の中に飛び込みます。わたしの体が焼けたら、その肉を食べて、修行に励んで下さい。」
帝釈天はウサギの言葉を聞き、神通力によって焚き火を起こしました。
ウサギは「もし、わたしの毛の中に、ノミやシラミなど、生き物がいたらそれを殺してはならない。」と念じて、三回体を振り、焚き火の中に身を投じました。
ところが炎は、ウサギの体の毛穴一つも焼くことはありませんでした。
ウサギは言いました。「バラモンさま。あなたの起こした火は、雪のように冷たい。いったいどうしたことでしょう。」
バラモンは答えました。「ウサギよ、わたしはバラモンではない。帝釈天である。おまえの布施の心を試すために天界から降りてきたのだ。」
ウサギは言いました。「どのような人がわたしの布施の心を試そうとも、わたしが布施を嫌がることはありません。」
帝釈天は、「おまえのすぐれた行いが、永遠に忘れられないように」と言って、山を圧搾(あっさく: 強くおしつけてしぼること。)して汁を搾り取り、丸い月面にウサギの姿を描いてから、ウサギに別れを告げ、天界に帰って行きました。

❥日蓮聖人(にちれん-しょうにん)は、事理供養御書(じり-くよう-ごしょ:日蓮聖人が、白米などの食べ物を供養されたことに対して書いたお礼状。)の中で、このように示しています。
『いただいた食べ物は、命という灯火(とうか・ともしび:ともした火。あかり。)を燃やすための灯油のようなものです。灯油が尽きれば灯火は消えてしまうように、食べ物がなくなれば命は絶えてしまいます。
命という灯火は、食べ物という灯油がなければ維持することが出来ませんから、命という灯火と、食べ物という灯油は、一体のものです。
命と食べ物は一体ですから、食べ物は命そのものです。
ですから、食べ物を供養(くよう:供物を真心から捧げること)するということは、命を供養するのと同じです。このことから、あなたの供養した白米(食べ物)は、白米ではなく、あなたの命なのです。
あなたは、命を供養したのであり、雪山童子や薬王菩薩が命を供養したことに劣らない功徳(くどく:幸福をもたらすもとになる善い行い。)です。
たとえこの全宇宙を宝で満たしても、命に換えることは出来ないのですから、命というものは、一切の宝の中でも第一の宝です。
このように最も価値のある宝である命を供物として捧げることが一番の供養になるので、昔の聖人たちは、自分の身命(しん-みょう:身体と命)を仏陀や仏陀の教えに供養して成仏(じょうぶつ:悟って仏陀に成ること)しました。
たとえば雪山童子は、身を鬼(羅刹)にまかせて諸行無常偈(しょぎょうむじょう-げ)を習いましたし、法華経に出てくる薬王菩薩は、腕を焼いて法華経に捧げました(妙法蓮華経の薬王菩薩本事品〈やくおうぼさつ-ほんじ-ほん〉第二十三に説かれる。)。
雪山童子や薬王菩薩のような、自分の命を捧げる供養を、帰命(きみょう:仏陀や仏陀の教えを信じて、身命を捧げて従うこと。絶対の信をもってよりどころとすること。)といいます。帰命をインドの言葉では南無(なむnamo・namas)といいます。(南無妙法蓮華経〝なむ-みょうほうれんげ-きょう〟の「南無」は、帰命の意で、妙法蓮華経に帰命しますという意。)
雪山童子や薬王菩薩のような、命を捧げる供養は、私たちのような凡夫(ぼんぶ・ぼんぷ:愚かな者、無知の者。仏教の道理をまだ十分理解していない者。)に出来ることではありません。
では、命を捧げる供養が出来ない私たちは、成仏できないのでしょうか。
そのようなことはありません。私たちのような凡夫は、「志〝こころざし〟」という字を心得て成仏できるのです。
「志」とは何かというと、ただ一枚しか着ていない衣服を法華経のために供養することです。これは、聖人が身の皮をはぐ(聖徳太子が、手の皮をはいで法華経を書いた)ことと同じです。また、自分の命を支えることがむずかしい飢饉の時に、ただひとつしかない食べ物を仏陀に供養することが「志」です。これは、命を捧げることと同じであり、雪山童子や薬王菩薩の命を捧げた供養と同じです。ですから、私たち凡夫は、「志」によって成仏できるのです。
聖人は事供養(身命を仏陀や法に供養すること)を行い成仏し、凡夫は、理供養(命そのものではないが、それを失えば生命の維持が難しくなる食や衣服を仏陀や法に供養すること。志のこと。)を行い成仏するのです。』


以下を参考にしました。
○コトバンク 菩薩
https://kotobank.jp/word/%E8%8F%A9%E8%96%A9-132948
○コトバンク ジャータカ
https://kotobank.jp/word/%E3%81%98%E3%82%84%E3%83%BC%E3%81%9F%E3%81%8B-3155581#E6.94.B9.E8.A8.82.E6.96.B0.E7.89.88.E3.80.80.E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8
 
○ウィキペディア ジャータカ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%AB
○コトバンク 捨身
https://kotobank.jp/word/%E6%8D%A8%E8%BA%AB-75976
○浄土宗新聞 連載 仏教と動物  第6回 兎にまつわるお話
https://jodo.or.jp/newspaper/special/2317/
○浄瀧寺 掲示板「妙法蓮華経 薬王菩薩本事品第二十三」
https://temple.nichiren.or.jp/0051016-jouryuji/2020/07/id488/
○日蓮正宗 妙眞寺若葉会 仏教コラム 雪山童子
https://myoshinji.net/2020/07/10/%e9%9b%aa%e5%b1%b1%e7%ab%a5%e5%ad%90/
○日蓮宗ポータルサイト ゼロから学ぶ日蓮聖人の教え 事理供養御書
https://www.nichiren.or.jp/goibun/id188/
○1596~1597 白米一俵御書(事理供養御書)2014:12月号大白蓮華より。先生の講義
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1995384.html

○日蓮聖人御遺文検索
https://www.xn--gmqx52bpnexk914iu0fkyv.net/texts/%E4%BA%8B%E7%90%86%E4%BE%9B%E9%A4%8A%E5%BE%A1%E6%9B%B8/
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